2015年11月18日

苦しみに終わりが無いって事

苦しみに終わりが無いって事を受け入れると人生楽になる。

と言われ、そんな事あるわけ無い!と反発した。
しかし、反発しているだけでは大人げない。
実際、検証もせず、自分の目の前に現れた言葉を否定するのは、論拠がなさ過ぎる。

故に、反論する為に検証をしてみた。

苦しみに終わりが無い・・・細かく言うと、苦しみから解放(喜び)に至る、という事を繰り返すという事。
喜びに至ったからと言って、二度と苦しみがやって来ない、という訳ではない。
いつか終わりが来る、という幻想に囚われていると、もう一度苦しみが来た時、幻想の分だけ苦しみが倍増する。

つまり、喜び、ここでは気づきの喜び、としたいと思う。
その喜びを感じた次の瞬間から、次の課題、ステージが始まっているので、また苦しみがやってくる。

いくつもの山に登っている、ロールプレイングゲームをやっている、オリエンテーリングをやっている、クリアしても次のステージが展開され、そしてそれは永遠に続く。
ゲームなら上がりがあるが、別のゲームを始めれば、また、同じ苦悩の連続だ。
オリエンテーリングだって山だって、場所は変わるけれど、結局、スタートして、障害や道のりを乗り越え、フィニッシュする、という行為に変わりは無い。

ゲームや遊びや趣味なら楽しいと感じられる。
しかし、イヤな事でそれが起こると苦しい地獄と感じられる。
それが地獄だ、と感じられたら、そこから意識を反転させて、どうせ地獄なら、その地獄に対して落ち込んだり、引きこもったり、悲劇と思ったり、嫌気がさしたりするよりも、つまり背を向けるよりも、否定するよりも、消極的になるよりも、こちらがその地獄を飲み込む勢いで、このアドベンチャーを楽しもう!と積極的な気持ちになった方が良いのではないだろうか?

単純に、その方が、体に良いような気がする。
遊び事、好きな事に対して、クリアする事を楽しい、と思える自分がいるのだ。
嫌いな事に対しても、それを応用する自分が居たっていいじゃないか!

ここまで、自分の理論を構築して、しっかりした意識の元に実験。

いや、実験したくてした訳ではなく、そんな事を考えていたら、苦しい事がやってきたのだ^^;

神様(宇宙)って迅速ね。

うぎゃ〜〜〜!あんな人嫌い〜〜!でもそれは自分なのか〜〜?!?!
意味がわからん〜〜?!?!
この前、気が付いたから、もう楽ちん人生でいいじゃないか〜〜〜!!!!

と、文句をタレながら、、しかし、生きる知恵として、頭の隅っこに”これは次の段階の苦しみだ!頑張れ!”というフレーズを置いておいても、損は無いのでは?
頭の隅っこに、そのフレーズを置くスペースを作っておいてやってもいいのでは?
と思い、やってみた。
結果、これが実験となったのだが。

数度、実験には失敗(と言うのか?)するものの、その都度、良い結果(自分の中の心理的数値として)を得られた(つまり、気づきに1週間かかっていたが、4日なり、2日なり、数時間になったって感じ。)。
そして、幾度目か実験。
幾度もしたかった訳ではないが、なかなか腑に落ちなかったので、幾度もやった^^;

結果、それは、そのフレーズ”苦しみに終わりは無い”という言葉は本当。

さて、これは実験と思って始めたが、結局、訓練になった。

苦しみがやって来るのは当たり前

自分はそれをひっくり返す事ができる

そして、その作業時間が、どんどん短くなった

何が来ても大丈夫(^_^)v

こうやって、自分を検証してみると・・・
なんだか、自分も宇宙(森羅万象)の中にいるのだなぁ、と感じられた。
そこから、こういう感覚が得られるとは。
不思議だ^^;
posted by ミー at 15:20| Comment(0) | 内観(自分調査) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月15日

人より事

ひとつの考え方として、人ではなく事に注目して物事を観ると良い。

ちまたでよく言うよね。人は鏡。
〇〇さんの△△な行動はイヤ!=私の中の△△な行動が嫌い!
という方程式に当てはめてみると良い。

〇〇さんと私が同じ訳が無い!

ちまたでよく言うよね。あなたは私。私はあなた。
〇〇さんの△△という行動はイヤ!=私にも△△な行動がある。
と当てはめてみる。

どんな気分だろう?

オェ~~~~_| ̄|○

だよね。
しかし、ここで、このままだと、何の変化も無い。
考え方が固定化したまま。
人間的成長は得られていない。

それでいいのか?

ちまたでよく言うよね。全ては変化し続けている。
心も変化していいのではないか?
いや、むしろ、変化しないとおかしいだろう?

最初に戻ろう。
人ではなく、事に注目。
”〇〇さんが”とすると、〇〇さんに注目してしまい、△△な行動が薄れてしまう。
故に、自分の中の△△な行動に注目が行かない。
これをまず改善しよう。
自分の中の△△な行動。
なぜ、これを嫌うようになったか?
それを探る事が、自分が何かを嫌う”否定する”現象を、自分の世界から少しずつ減らしていく
行動となる。

自分を好きになろう、と良く言うけれど。
自分の中の△△が嫌い!という事がたくさんあれば、その数だけ、自分の事を嫌いだろう。
自分の中の嫌いな事の数が少しでも減れば、だんだん自分の事を好きにあれると思う。

自分の中の嫌いな所・・・1000個 VS 自分の中の好きな所・・・5個

これでは、自分の事を好きな事も感じられないだろう。

これを逆転させなくても、もうちょっと自分の中の好きな所の数を増やせば、もうちょっと
自分の事を好きになり、自分を肯定できるようになるのではなかろうか?

自分の中の好きな所。無理くりでも集めて来られれば良し。
嫌いと思っていた事も、嫌いになった理由が判れば、それは案外好きな所にひっくり返るかも
しれない。
そうなれば、また、自分の中の好きな所が増えていく。

ん?
脱線しているか?

とにかく。
人より事に注目して観察すると、少し、自分を好きなる材料が増えると思う、というご提案。

2〜3日、いや、1日だけ、そうやって、日常を過ごしてみるのも良いのではないだろうか?
1日くらい、いや、1時間でも。
〇〇さんの△△が嫌いなのよね〜〜!!とその時の事を思い出して、あれこれ考えてる時間が、多分、人生のうちで、1時間くらいはあると思う。
その時間を”事”だけ追いかける時間に充てても、多分、誰にも、自分にも、文句は言われないと思うのよね。
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2015年11月12日

とどまる人

そこに、その領域にとどまる人がいる、という事を確認すると動揺した。

そんな所に留まっていてはダメという否定する気持ちが生まれた。

私はその事に対して、何もしなくていいのだろうか?という焦りが生まれた。

留まる事を批判する気持ち。
鏡の法則(全てはひとつという真理)
人を批判する気持ち→自分を批判している
自分の中の、留まる気持ちを批判している
責めている
嫌っている
だから、人の事を心配しているのではなく、自分を心配しているのだ。
自分に警告しているのだ。
警告?
留まって、とても大変な目にあった事があるのではないか?
自分の魂の履歴の中に、そういう記憶は無いか?
トラウマは無いか?yes?no?
NO。

留まるのは悪い事か?
この世でやってはいけない事は無い(全ては在る、全ては肯定という真理)
留まって悪い訳では無い。
留まって、その領域で自分の力を発揮している人はいる
留まるからこそ、その世界を活性化させている人はいる
むしろ、その業界、その世界で留まる事で、匠は生まれるから悪い事ではない、むしろ良い事、健全とも言える。

全ては変化し続けるという真理があるのだから、そこに留まるのはおかしいのではないか?という事にひっかかっている。
その世界を抜け出る事が変化、という思い込みがある。
いやいや、冷静に考えて。
そんな大きな(世界を抜け出る)変化が起こらなくても、ちゃんとその人達は日々変化している。誰か、私が何かしなくても、ちゃんと変化をしている。私がコントロールしなくても関与しなくても、彼らも変化している、彼らも私も、同じ生命(エナジー)の営みの流れの中にいて、日々ちゃんと、刻々と変化している。だから大丈夫。
ある領域に留まる=停滞というのは、違う。
ああ、勘違い、勘違い!

っちゅう事は、私もどこかに留まって良い。
留まる自分を許せる。

ここまでやって、自分の大きな勘違いに気づいたので、人がどの領域に留まろうとも動揺しなくなった。どんっどん、留まってくれ!

しかし、う〜ん。もうひとつ納得できない。
各領域に留まる・・・その人達と接点が無くなる。
接点が無くなる・・・全ては私、だというのに、接点が無くなっていいのか?
接点が無くなるかどうか、今後の動向で体験して確認していくしか、最終的な納得はできない。
つまり、この先どうなるか?楽しみにしていればいい。
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2015年11月10日

エゴとつきあう

エゴは敵でも無く、味方でもなく、ただそこに在るもので、手放すより飼い慣らす、という表現が適切かな、と今は思う。
インドの山奥で修行してる強者のヨーガ行者でも、常に磨いている、と聞く。
もう大丈夫、という事は無いらしい。
ただ、常に磨く、という事は、そこにエゴがやってきているのがわかる、という事。
せめて、そういう冷静な観察眼を持てるようになれば、悟ったと言えるのでは?

ひとつひとつ、悟りを続け、悟りが積み上がったとき、ああ、人生とはこういう事か、とまた悟る。

人生は一度きり、この肉体のある時のみ、という範囲で物事を捉えている場合、人生とはこんなもの、という所に落ち着くだろう。

人生は魂の履歴の一部にすぎな、という範囲で物事を捉えている場合、人生とは、こういう事の為にあるのか、という考えに及ぶのだろう。

生き方を、社会的なルールの範囲内で生きようとするか、自然のルールの中で生きようとするか?
社会的なルールとは、国や地域、育った環境によって、当てはまり方が違ってくる。
これは言い方を変えれば、不平等とも言える。
自然のルールとは、どこで育とうとも、どこで過ごそうとも、万人に共通に当てはまる。
こっちは、言い方を変えると平等とも言える。

誰の中にも平等でありたい、という思いがあると思う。
その平等を社会のルールの中で当てはめようとするか、自然の中(森羅万象)のルールの中で当てはめるか?
自然の法則の中において、自分はすでに平等に扱われている、と思い至った時、では自分が平等に扱われていない、と思っているのはなぜだ?と改めて自分に問いかけてみると良い。
不平等に扱われている気持ちは、自分の勘違いが無いか?何か情報が欠けていないか?知識が足りないのでは無いか?

その理由を知りたい、と思った時、答えが必ずやってくる。
人の口から、身内の口から、本、映画、テレビ、ニュース、他人同士の会話etc.

自分の内側から答えがやってくれば一番いいけれど、一番信じられないのは自分なのだから、そこからわいてきた答えに『まさかね』と返してしまう。
だからこそ、一番利害関係の無い所からやってくる。
これぞ、ハイヤーからのメッセージ。
posted by ミー at 00:00| Comment(0) | 心模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月06日

過去の経験において

どれだけひどい目に合ったか?

ではなく、そこから、どれだけ立ち直ったか、立ち上がったか?

飛躍したか?どれだけ掴んだか?

豊かさ(苦、楽、酸い、甘い色々)を味わって身につけたか?

って事の方が重要。
posted by ミー at 00:00| Comment(0) | 気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする