2015年11月10日

エゴとつきあう

エゴは敵でも無く、味方でもなく、ただそこに在るもので、手放すより飼い慣らす、という表現が適切かな、と今は思う。
インドの山奥で修行してる強者のヨーガ行者でも、常に磨いている、と聞く。
もう大丈夫、という事は無いらしい。
ただ、常に磨く、という事は、そこにエゴがやってきているのがわかる、という事。
せめて、そういう冷静な観察眼を持てるようになれば、悟ったと言えるのでは?

ひとつひとつ、悟りを続け、悟りが積み上がったとき、ああ、人生とはこういう事か、とまた悟る。

人生は一度きり、この肉体のある時のみ、という範囲で物事を捉えている場合、人生とはこんなもの、という所に落ち着くだろう。

人生は魂の履歴の一部にすぎな、という範囲で物事を捉えている場合、人生とは、こういう事の為にあるのか、という考えに及ぶのだろう。

生き方を、社会的なルールの範囲内で生きようとするか、自然のルールの中で生きようとするか?
社会的なルールとは、国や地域、育った環境によって、当てはまり方が違ってくる。
これは言い方を変えれば、不平等とも言える。
自然のルールとは、どこで育とうとも、どこで過ごそうとも、万人に共通に当てはまる。
こっちは、言い方を変えると平等とも言える。

誰の中にも平等でありたい、という思いがあると思う。
その平等を社会のルールの中で当てはめようとするか、自然の中(森羅万象)のルールの中で当てはめるか?
自然の法則の中において、自分はすでに平等に扱われている、と思い至った時、では自分が平等に扱われていない、と思っているのはなぜだ?と改めて自分に問いかけてみると良い。
不平等に扱われている気持ちは、自分の勘違いが無いか?何か情報が欠けていないか?知識が足りないのでは無いか?

その理由を知りたい、と思った時、答えが必ずやってくる。
人の口から、身内の口から、本、映画、テレビ、ニュース、他人同士の会話etc.

自分の内側から答えがやってくれば一番いいけれど、一番信じられないのは自分なのだから、そこからわいてきた答えに『まさかね』と返してしまう。
だからこそ、一番利害関係の無い所からやってくる。
これぞ、ハイヤーからのメッセージ。
posted by ミー at 00:00| Comment(0) | 心模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする