2016年01月27日

イライラの素 〜パターンあれこれ〜

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同じ事を繰り返す事に苛立ちを覚える、というお手紙(メール)を頂いたので、お返事を書きました。

題材は『繰り返す』ですが、いろんな題材(ネガティブ行動)を検証する時に使えるパターンかな?
と思い、記録しておきます。

★以下、お返事文(メール)

自分に許せていない事を他人に許せる訳ないですね。
人間の心理のパターンだと思うのですが、自分がそれをしないように我慢している事を
他人がいけしゃあしゃあとやっていると腹が立つものです。

『私が我慢してるんだ!おまえがやるな〜〜〜!!!おまえも我慢しろ!!! 』的な?

最近は、私もちょっとは冷静になり、今、人の行為にイラッとしたという事は
自分に規制をかけていないだろうか?とも考えるようになりました。
腹を立てるのと同時進行でやるので、我ながら器用です^^

もう一つ、鏡の法則も加味します。
他人の行動にイラッとする、とは言いますが、鏡の法則を用いれば、それは自分を見ているのと同じ。
確かに、姿形は、友人だったり、夫だったり、家族だったりします。
例えば、自分の目には、夫という姿形、肉付き、顔の表情があったりなんかします。
肉眼と脳はそう捉えます。
しかし、その顔をへのへのもへじにして、姿形を骸骨にして、自分と同じと見なした時、
もしくは、自分の姿形の着ぐるみを着せた時、答えが出ます。
『ぎゃっ!私のこの部分が見たくないからイラッとしたのね!!!!!』

繰り返す自分を許していない、という事に気づいたのなら、なぜそんな自分を許せないか?
どうやったらそんな自分を許せるか?ああ、繰り返してて良かったんだ、と腑に落とせるか?
そこら辺りを考察して行けばよいと思います。

繰り返す事→ダメだと思っている
繰り返す→心臓を始め、体の各機関は同じ動きを繰り返している。
それでないと生きて行けない。だから繰り返す事がダメだというのはおかしい。
では、どうして、自分は繰り返しては行けないと思い込んでいるのか?
良い面も、悪い面も、両方有るのに、どうして悪い事だけ自分に採用し、
自分に対して、それはやっちゃいかん!と止めているのか?

可能性として、父か母に、繰り返し同じ事をしてたしなめられた。
それでは成長が無い、と怒られたかだめ出しをされたか。

繰り返す=機械と同じ
自分は機械になりたくない、人間でいたいと思ったか?

繰り返す=進歩が無い=また同じ失敗を繰り返すという思い込み
繰り返そうが、進歩していようが、失敗する時は失敗する。
また、その失敗ですら、実は失敗では無く、進化だったという見方もできる。

繰り返す=人が同じ事を繰り返しているのを見て、ああはなりたくない、と思った。
軽蔑した。否定した。

繰り返す=同じ事を繰り返すのは良くない、という学校や社会の教えを守ってる。

私は同じ事を繰り返していい、何の進歩もしなくていい、と自分に言ったとき、
感情が乱れてくれば、まだ、抑圧した思い(エネルギー)が残っているという事。
『繰り返しちゃダメじゃん!そんなのダメじゃん!絶対ダメよ!!!』
『繰り返したら、私がダメになる、理由は知らない!でもダメになる、
繰り返すなんて、そんなのダメよ〜〜〜!!!! 』
感情に理屈は無いので、根拠無く、それをやってはダメだ!ぎゃ〜〜〜〜(T_T)!!!という
気持ちが出てくるのなら、そのまま半狂乱の気持ちで泣いてしまうなり、わめいてしまえば
抑圧された思い(エネルギー)が抜けて、ある意味、スッキリ、抜け殻感がやってきて
なぜか、繰り返していいじゃん、と思えるようになったりします。
今まで、支離滅裂だった主張が、理路整然と繰り返す事について、冷静に考えられるように
なるはずです。

『繰り返しちゃダメよ〜〜!そんなコトしたら、この世が終わってしまうわ〜〜〜!!!』
とわめいていた所から、
『ん?そんなコトでこの世が終わるのか?あんた、ちょっと、偏りすぎてない?』
と思えたらしめたもの。
繰り返していいものもある、むしろ、繰り返してなきゃ、うまく回らない事もある。
例えば時計、例えば食べる、寝る、という行為、例えば息をする。
この世を動かしているのは、案外、繰り返しだったりする。
体なんて、無意識が繰り返してくれてるから、細胞は生まれ変わり、心臓は動いてくれている。
ちょ〜〜っと血流の方向変えちゃおうかな?って心臓が考えたて繰り返しを辞めたら・・・
突然死?心臓病?いずれにしろ、異常事態が起きてしまう。

繰り返しがダメだ!と一方方向からしか見ていなかったのであれば、ダメじゃない事もあるよ!
という知恵を自分にプラスする、もしくは、ダメ!から、まぁいいかも、に格上げ(?)格下げ(?)
してあげればよいと思う。

そうそう。
繰り返す事には、繰り返しトラブルを起こしてしまう・・・と、自分にダメだしする事もある。
(自分が起こしたとしても、巻き込まれたとしても、見舞われたとしても)
その時、ちょっとイヤだけど、相当イヤだけど、やってみて欲しい事が。
腹を据えて、肝を据えて、自分に決心するのだ。

『あ〜〜もういい!は〜〜もういい!私はず〜〜っとこのトラブルを起こし続ける!
起こし続けてやるぞ!わたしゃ、このトラブルが大好物なのよ!コレが無いと生きて行けない!
ず〜〜〜っとこのトラブルを繰り返してイイ!それでいいんだ、それが私なのよ!! 』

この世の大王になった気持ちで宣言してみると、案外、スッキリしますわよ^^v
posted by ミー at 21:16| Comment(0) | 手紙 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月21日

時は金なり 〜お金に相当するのは”時”だけなのか?〜

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人のお金でも自分のお金でも数えるの好きo(^▽^)o
と言って、会費の会計を買って出たら「羨ましい・・・」と言われた。
どうも、お金に嫌悪感を持っている人には、羨ましいらしい。

私もお金は怖かった。
若い頃、レジをまかされ、1,000円受け取ってお釣りを渡すだけで、舞い上がったもんだ。
パニック。
それほど、お金にビビっていた。

そんな仕事をしていたら、そのうちお金に慣れてきた。
幸か不幸か?前夫が自営をしていて、1,000万単位の仕事もしてたので、その位数字には
慣れてしまった。
銀行でお金の交渉もできるようになった。
会社のお金だけど、100万円、バッグに入れて持ち歩いても平気になった。
1,000円でビビってたのに。

そうなっていったのは、数字に慣れたっていうのもあるけれど、お金やりとりする間に
お金とはいかなるモノか?と考えた、という事もある。

よく身銭を切る、というけれど、本当にそうだと思う。
お金っていうのは、たかが紙切れだけど、それを手に入れるために、自分はどれだけ
努力を重ねているだろう?
お金を得る=仕事をする=仕事には自分の時間を提供する=自分の体も提供する。
自分の人生の時間を削り取って、お金なるモノを得ているのだ。
昔は米や小麦がお金の代わりだったとか。
それじゃ重いので、持ち運びに便利で、お米や小麦同等の価値のあるものを、と考え出された。

お金も実は物々交換になると思うのだけど、どうも毛嫌いされる事が多い。
お金=汚い。
小麦や米や塩みたいに、重たくないし、大量生産出来る便利な物だから、たくさん使える。
たくさん使う=賄賂。

お金を持った者が勝ち、と言うけれど、昔は荘園(田畑)持った豪族が幅をきかせてた訳で
お金が無くなったとしても、何らかの形で、その時代の生活で一番必要なものをたくさん持ってる
人や団体が、いわゆる裕福、余裕のある生活をしている。
水なり食料なり塩なり石油なり・・・

単純にエネルギー交換、という視点で見ると、何かを受けとれば(得る)、何かを与える(渡す)
という力が働く(らしい)。
得て渡す、という交換行為が、目の前で行われればスッキリ爽やか!なのだけど、これが目に見ないと
いったい、どこでどう出て行くモノやら・・・
目の前で交換されたとしても、得た物のエネルギーに対して、渡した物のエネルギーが少なければ
多分、生活していて、どこかの時点で不足分のエネルギーが出て行くのだろう。
事故とか故障とか病気とか失せ物とかいう形で。

情けは人の為ならず
(人にかけた情けは、いずれ自分の元に返ってくる、と私は解釈している)
人を呪わばあな二つ
(人を呪えば、必ず自分にも、どこからか返ってくる、と私は解釈している)

与えたモノが受けとるモノ

人が栄えるのも、家が栄えるのも、企業が栄えるのも、何らかの形で、人様が良くなるような事を
与えているのだと思う。
栄続けるのならば、怠りなく、切磋琢磨して与え続けているのだと思う。
そして、受けとる事に遠慮が無いのだと思う。
遠慮が無い、というか、へりくだる訳でもなく、傲慢になるのでもなく、ただ単に、自分が与えた(送り出した)思い(エネルギー)がこんな形で返ってきたんだ、と淡々と受け取っているのだろう。

さて、私が発するエネルギーはどんな形で返ってくるのだろう?
できるだけ、素敵な形で返ってきてくれるよう、自分の思いを磨いてるつもりなんだけどね。

お金をお金として、ご大層な物として恐れていると、扱いづらい。
お金も気持ちも物も同等の事、として見る事ができれば、お金はそんなにビビる物ではない、と思う。
posted by ミー at 22:07| Comment(0) | 心模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月19日

やってる!やってる! 〜ジミーちゃんじゃないよ^^;〜

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俺、やってますから!
マツコの知らない世界に出演していた、武井壮さんの言葉。

武井さんは、小5で自分はスポーツで生きていこう!と決心したとの事。
それ以来、スポーツで生きる為に、どうやったらいいか?という事を
ず〜〜っと、ず〜〜〜っと、ずぅ〜〜〜〜〜っと研究していたそうです。

ただ者じゃない。

彼は、人を笑顔にするお笑いは素晴らしい!と気づいて依頼、お笑いをする為に
自分のアパートを引き払い、お笑い芸人の集う飲み屋に住み続けた・・・という話しを
聞いた事があって、その時も、コイツ、ただ者じゃ無い!と思い、密かに尊敬してました。

そんな武井氏が、スポーツで生きる為に、いろんな事をやって、やって、やりまくって
最終的に出てきた彼の中の結論。

俺、武井壮をやってる!

は?

は?な話ですが、彼は、いろんな事をやり過ぎて、その意味をうまく説明できないそうです。
でも、自分の指針って、心の軸になる事って、なかなか言葉でうまく説明できないですよね。
それって、感じる事なので。
一応、理論はあると思うのですよ。そうなるに至った。
だけど、ある日ふと思ったのだと思います。

『俺、やってる!』

番組内で、室伏広治さんについて、ハンマー投げ選手を、女子高生が知ってる国は日本くらい。
そのぐらい地味なスポーツを有名にした室伏さんは凄い!という話からも、こう説明していました。

『室伏広治さんは、室伏広治をやってるんですよ!』

マツコさんは『やってるの意味がわかんな〜い!』とおっしゃってましたが、最後の辺りでは
そのニュアンスを掴まれたようで、最後はこの発言。

『あたし、マツコをやってる!!』

私もなんとな〜くニュアンスがわかったつもり。

室伏さんが室伏さんで在るために。
武井さんが武井さんで在るために。
マツコさんがマツコさんで在るために。

自分がこう在りたいという思い(イメージ)があるから、そうなる。
それをやり続ける為には、外側からはもちろん、内側からも『そんな事しなくても』という
声が上がったのではないかと思います。
それでも、やり続ける。
やめずにやり続ける。
他から強制されたのではなく、自らそう在りたいと思うから。
だから、やってるんです。

人間の心というのは、実に弱いもので、ついつい楽な方へと流れがち。
だから『こうだ!』と決めても挫折する事もしばしば。

だから、ある意味<やってる=演ってる>かもしれない。
『そんな面倒な事して生きなくてもいいか』という心の声を制して、やり続ける。
自分に無い物を、乗っけて、盛って、演り続ける。
そしてそれが、いつしか自分自身になっていく。

お〜〜!やっぱり、注目される人は生き方が違うな!
と、感心したのですが・・・ちょっと待てよ。
ちょ〜〜っと待てよ!
よくよく考えてみ???
私、自分をヤッテないですか???
やってるよね?
スポーツ選手やタレントじゃないから、世の中に注目される事は無いけれど、
私は私をやってますよね?
私は私で在ろうとしてますよね?
とりあえず、犯罪犯さない、人をなるたけ傷つけない、優しくしたい、って思って
私という人間をやってますよね?
おや。私、やってたんですね!

自分を演る、という事は、演ってるという自覚があるから演じられる。
演る、という事は、自分を表現するという事。
自分を表現するには、自分がどう表現したいか?という思いがあっての事。

幸いにして、これは仕事では無く、オファーがあっての事ではない。
その分、ギャラも出ないけどね。(いや、うまくすれば出るかもしれない)
あくまで、自分が演りたいかどうか?という事だけ。
どんな役でも、どんな演じ方でも、演ってる自分が楽しいのが最高!

〜 私、女優だから 〜

く〜〜!カッコ良く言ってみたいねぇ(≧▽≦)〃
posted by ミー at 21:41| Comment(0) | 心模様 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月17日

死ぬことは種になる事かもしれない 〜花のように生きるってこういう事?〜

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無意識に、死ぬ事が怖いことで、悪い事、と思っていた。
何か、辛いことがあると、すぐ死にたい、とか思うのにね。
死にたいという願望であって、できないから願望になるのであって、要するに出来ない
やる気も無いって話。

痛い、というのは“痛い”という”感覚”であり、他の感覚と同列と見なせば、
なぜ痛い、にだけ”嫌悪”を感じるのか?
そう考えると、痛みを何かにくっつけて、そのイメージと一緒に捉えているのでは?

経絡ストレッチは痛みを伴う。顕在意識(自分の知ってる範囲)の限界を超えるから。
私の体はココまでしか曲がらない、と捉えていた事を越えて、思った以上に曲がるから。
意識だけが伸びて、見える体は、それについて行こうと負荷がかかる。
自分のストレッチの順番を待つ間『また、痛いんだろうな。怖いな。』と思った。

はて?
怖い?
ん?

なぜ怖い?痛いだけじゃない。痛いっていうのは感覚のひとつに過ぎず、痛いのは痛いだけで
それを恐れる必要があるのか?
痛いのはイヤだけど、痛いからすぐ死ぬ訳でも、息が止まるわけでもない。
なぜ怖い?

もしかしたら、痛み=恐ろしい事、と勘違いしていないか?
例えば、この順番待ち。
例えばこれが、処刑台に運ばれて行く自分の姿とリンクしたらどうだろう?
死が待っているのは確実だ。
しかし、その前に痛みがある。
死ぬ前の最後の意識は何を考えていただろう?
痛い!怖い!
えん罪であったなら、ものすごい勢いでこの世を恨んだだろう。
自分が犯した罪でも、こんな事で死罪になるのか?判決を下したヤツを恨んでやる!
いずれにしても、こんな所で死んでたまるか!!!とか思ってるかもしれない。
あれこれ考えていたとしても、最終的に、死に対して、最大級の恐怖を抱いているだろう。

死ぬのが怖い〜〜〜〜!!!

処刑を待つ気持ちに、なってみる。
死が怖い、という思い込みがあるから、怖いのだ。
自分が悪い事をした罰=自分が悪いから死ぬ。
死=罰

では、もし、死が悪い事では無い、と考えてみたらどうだろう?

死=変化。
この知識はある。
全ての物事は、形を変えるに過ぎない、という叡智は持っている。
これが普遍の真理であるならば<死=罰>説を唱える私はどうよ?
変化って罰なの?
いや、違う。変化は変化。それ以外の何者でもない。

死=終わり、ではなく。
死=変化。

東洋の発想には、人生には春夏秋冬がある、という。
春に種をまき
夏に実を付け
秋に収穫し
冬は種になる=次の春を待つ準備期間

一般的な考え方は、春は産まれる、冬は死ぬ、と考える。
谷田先生の持論の中に『冬は晩年ではなく、死後ではないか?つまり死後(冬)に次の生(春)を待つ準備期間の意味合いがあるのではないか?』というのがある。
なるほど。

それを加味すると、死というモノが、全く別の様相を持って、私の前に現れた。

死=良く出来ました!

理由はどうあれ、原因はどうあれ、死ぬ、という事は、生ききった、というお印ではなかろうか?
病死、他殺、処刑、自殺、事故死、若い、年寄り、関係なく、天から『はい!良く出来ました!』
と言われているのではなかろうか?

ネガティブに捉えれば『はい、あんたダメ、やり直し!』ともなるけれど、それでも、やっぱり
できるだけの事をして、次に移行するチャンスと捉えれば、やっぱり『はい!良く出来ました!!』
と花丸を頂いているのではないかと思う。

生死もまた変化のひとつ、と捉える事ができれば、何よりつらい『別れ』を、この世の法則のひとつである変化だと受け止める事ができれば、穏やかに、そして、何か密かに、喜びに基づく期待を持って
見守る事ができるのではなかろうか?

どんな死でも、生ききったサイン、と思うと、自分の中で緊張していたどこかの部分が、またひとつ
緩んだ気がした。
posted by ミー at 17:54| Comment(0) | 気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月14日

死生観

死に関する思い込み

痛み→死ぬのが怖いにつながる

痛みが怖い→切られた痛み、処刑の痛み→無念、私は悪くない、なぜこんな事に?!

死を怖いと思っているから、死に直結する事を痛いと思う。

死=次の生への準備段階。
死=生ききったというサイン→自殺、他殺、事故、死の原因問わず。

人ではなく、事だけを観る。
posted by ミー at 20:18| Comment(0) | 気づきメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする