2016年01月17日

死ぬことは種になる事かもしれない 〜花のように生きるってこういう事?〜

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無意識に、死ぬ事が怖いことで、悪い事、と思っていた。
何か、辛いことがあると、すぐ死にたい、とか思うのにね。
死にたいという願望であって、できないから願望になるのであって、要するに出来ない
やる気も無いって話。

痛い、というのは“痛い”という”感覚”であり、他の感覚と同列と見なせば、
なぜ痛い、にだけ”嫌悪”を感じるのか?
そう考えると、痛みを何かにくっつけて、そのイメージと一緒に捉えているのでは?

経絡ストレッチは痛みを伴う。顕在意識(自分の知ってる範囲)の限界を超えるから。
私の体はココまでしか曲がらない、と捉えていた事を越えて、思った以上に曲がるから。
意識だけが伸びて、見える体は、それについて行こうと負荷がかかる。
自分のストレッチの順番を待つ間『また、痛いんだろうな。怖いな。』と思った。

はて?
怖い?
ん?

なぜ怖い?痛いだけじゃない。痛いっていうのは感覚のひとつに過ぎず、痛いのは痛いだけで
それを恐れる必要があるのか?
痛いのはイヤだけど、痛いからすぐ死ぬ訳でも、息が止まるわけでもない。
なぜ怖い?

もしかしたら、痛み=恐ろしい事、と勘違いしていないか?
例えば、この順番待ち。
例えばこれが、処刑台に運ばれて行く自分の姿とリンクしたらどうだろう?
死が待っているのは確実だ。
しかし、その前に痛みがある。
死ぬ前の最後の意識は何を考えていただろう?
痛い!怖い!
えん罪であったなら、ものすごい勢いでこの世を恨んだだろう。
自分が犯した罪でも、こんな事で死罪になるのか?判決を下したヤツを恨んでやる!
いずれにしても、こんな所で死んでたまるか!!!とか思ってるかもしれない。
あれこれ考えていたとしても、最終的に、死に対して、最大級の恐怖を抱いているだろう。

死ぬのが怖い〜〜〜〜!!!

処刑を待つ気持ちに、なってみる。
死が怖い、という思い込みがあるから、怖いのだ。
自分が悪い事をした罰=自分が悪いから死ぬ。
死=罰

では、もし、死が悪い事では無い、と考えてみたらどうだろう?

死=変化。
この知識はある。
全ての物事は、形を変えるに過ぎない、という叡智は持っている。
これが普遍の真理であるならば<死=罰>説を唱える私はどうよ?
変化って罰なの?
いや、違う。変化は変化。それ以外の何者でもない。

死=終わり、ではなく。
死=変化。

東洋の発想には、人生には春夏秋冬がある、という。
春に種をまき
夏に実を付け
秋に収穫し
冬は種になる=次の春を待つ準備期間

一般的な考え方は、春は産まれる、冬は死ぬ、と考える。
谷田先生の持論の中に『冬は晩年ではなく、死後ではないか?つまり死後(冬)に次の生(春)を待つ準備期間の意味合いがあるのではないか?』というのがある。
なるほど。

それを加味すると、死というモノが、全く別の様相を持って、私の前に現れた。

死=良く出来ました!

理由はどうあれ、原因はどうあれ、死ぬ、という事は、生ききった、というお印ではなかろうか?
病死、他殺、処刑、自殺、事故死、若い、年寄り、関係なく、天から『はい!良く出来ました!』
と言われているのではなかろうか?

ネガティブに捉えれば『はい、あんたダメ、やり直し!』ともなるけれど、それでも、やっぱり
できるだけの事をして、次に移行するチャンスと捉えれば、やっぱり『はい!良く出来ました!!』
と花丸を頂いているのではないかと思う。

生死もまた変化のひとつ、と捉える事ができれば、何よりつらい『別れ』を、この世の法則のひとつである変化だと受け止める事ができれば、穏やかに、そして、何か密かに、喜びに基づく期待を持って
見守る事ができるのではなかろうか?

どんな死でも、生ききったサイン、と思うと、自分の中で緊張していたどこかの部分が、またひとつ
緩んだ気がした。
posted by ミー at 17:54| Comment(0) | 気づき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする