2016年03月23日

劇薬だが効くのだよ 〜アドラーの心理学〜

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アドラーの心理学が流行っているらしい。
という事を『100分de名著』という番組で知る。
ちなみにこれはNHKの番組。
受信料払ってるからね。しっかり活用。
結構、良い番組作ってくれてます。

フロイト、ユングはよく聞くけれど、アドラーについては、ヨーガ療法を習っている時
名前を聞いたかな?
この前のPCMを習った時にも、この名を聞いたかな?
と、私の中では薄い存在。

アドラーはフロイトと同じ時期に一緒に心理学を研究していたとの事。
けれど、方向性の違いで、袂を分かった。

アドラーは、幼少期、体が弱く(脊椎カリエスかな?)、元気な人達が羨ましかった。
病気が治って、体の弱い自分を補うべく、健康になる努力を積んだ。
そして医者に。
たまたま、大道芸人やサーカスのメンバーを多く観る事になる。
不思議な事に、彼らは子供の頃、体が弱かったが、今は体を鍛える(芸の稽古とか)事を
重視して、今の職業に就いているようだ、という事を知る。
自分の経験ともあいまって、人は劣等意識からその後の行動を考えるのでは?という仮説を立て
自分の指針としていった。

彼の提唱しているのは、いわゆる『自分原因説』

それを説明する100分de名著でのミニドラマでは、こんな例が。
恋人が欲しい、と嘆く青年は、自分は学歴も無く、背も低い、見てくれもそんなに良くない。
そんな自分に恋人が出来るわけがない。もっと学歴があれば・・・もっと給料が良ければ・・・もっと背が高ければ・・・彼女ができるのに。
と嘆いている。
けれど、これをアドラー心理学で解析すると、恋人が出来ないのは、もっと他に原因があるという。
もし、整形をして顔を良くして、給料も学歴もあって、もしそれで彼女ができなければ、原因は他にある。
もっと根幹的な問題が自分にある。それは容姿学歴で選ばれないよりもっと傷つく。
自分の奥の奥の心の中では、そういう自体にならないように、もっともらしい理由をつけて、彼女ができないと
もがいている。
もしくは、彼女ができて、わずらわしい事が増えてしまう、という、心の奥の奥の奥の声があるのかもしれない。
社会生活を維持する為の心としては、彼女が欲しいと思っているのだけどね。
(社会生活を維持する為の心とは、よく言う、思考、というヤツなのかもしれない。)


私の兄が引きこもりで、どうやったら出てこれるだろうか?と相談。
兄は引きこもりで苦しいだろう、これからどうやって生活するのだろう?と嘆く妹の女子高生。
しかし、本当に兄は困っているのだろうか?
表面的には苦しんでいる。外に出たいともがいている。しかし、本当は心の奥の奥の声は、
外に出て傷つくのを恐れ、安全な家の中に居たがっているのでは?
就職先が無い、ストレスで体調不良になってしまった、外に出ようとすると色々な症状が出る。
そういった、原因は自分以外にある、という考え方ではなく、自分自身がその状況を作り出している、という考え。

全ての問題は、自らが作りだしている、というモノの見方。
司会の伊集院さんはひとこと。
『それって劇薬ですね^^;』

ええ、劇薬です。
聞きたく無い事です。
この問題を自分が作りだしているなんて?!?!

けれど、もし、アドラーがもの凄く努力して開発した考え方で、著書がベストセラーになっているのであれば
その考えも、あながち否定出来るわけではなく。
自分だけは、この考えに当てはまらない!というほど、自分について知っている訳ではなく。
もしも、アドラー方式の考え方を自分に当てはめて自分を調査してみると、案外、全く知らない自分(自分の心の声)を
聞けるかも。
いや、聞ける。
その時、本当の自分に出会えた!!
と思える。

自分の本音の本音に出会った時の驚愕、というか、おかしさ、というか、滑稽さというか・・・
どんな推理小説の謎解きよりも、痛快かもしれない。

アドラーについて(100分で名著より)
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/51_adler/
posted by ミー at 10:30| Comment(2) | スクラップメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

司馬遼太郎さんに学ぶ 

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無思想という思想。
これが日本の柔軟性の根底になっている。
他国の文化を取り入れ、独自のスタイルにアレンジ。
日本古来の神道と渡来の仏教の共存。

NHKスペシャル『司馬遼太郎』さんより。


何かになろう!という意思は無い。
何者にもならなくていい。
それこそが、日本の柔軟性。

何かになろうとすると、そうでは無い物を排除したくなる。
何かになろう、という気持ちがなければ、目の前の事を受け入れ、それを取り入れる事で
変化に乗っていける。

どちらがいいと言う訳でもないし。
どちらもひとつの生き方。

甲乙つけがたく、また、自分の中に、どちらもある。
故に、どちらの生き方が、今の自分に合っているか?と、その時々で、使い方を変えてもいい。

何かに突出して居る人、それに集中している人。
1つの特技がある人。
何かになろう!と決めて貫いている人が羨ましかった。
どうして私はそういう心境になれないのだろう?
何をやっても、かじるだけで、続かないし。
そういう自分にホトホト嫌気がさしていて、何か、1つの技術を身につけたい、
なんぞと思ってみたりもする。
けれど現実化はしない。(妄想だけで行動しない)

日本人の根底にある『無思想という思想』という考え方を聞いて
ああ、そうなのか、と楽になった。
なんたって、わたくし日本人。
漏れなく、この思想と寄り添っているはず。
何者にもなりたくない自分で良かったんじゃん。
それを評価するも、ダメだしをするも、視点の違い。

何者かに成りたい!と思わないから、何者にでもなれる数多の可能性がある。
1つの固定化した何かになりたい!と考える時よりも、何者かになる可能性がある。
それは成ってからのお楽しみ!とした方が、わたし的には気持ちが爽やかになる。

なんだ、わたしは無思想という思想という生き方の方が好きなのだ。
何かを目指すって性に合わない。

カッコ良く言えば、人生の中で切磋琢磨され、最後の時にどんな形になっているか?
どんな輝きを、どんなカットになるダイヤモンドが出来上がるかを楽しみにしている。

いやいや、ダイヤモンドじゃなくても。
『こんなん出ましたけど?』と、自分でも『これは珍妙な?!』と言える
モノが出てくるといいなぁ、と思っている。

なんと!
書いてて、ここで本音が・・・

私は”美しい”でも"素晴らしい”でも”立派な”でもなく、

『珍妙な!』

というモノが見たいらしい。

『変わっている(変わり者の意)』と言われる事がイヤだと思う自分がいた。
普通に、無難に、幸せに生きて欲しい、という親の願いを叶えようとすれば、
変わり者の自分は、親を裏切っているようでイヤだったのだろう。

『変わっている(変わり者の意)』と言われる事がイヤだと思う自分がいる。
そえは自分を賛美する言葉だから、他人に言わせていたのだろう。
けれど、それを聞くのはまだ早い、時期尚早、と思っていたのだろう。

『変わっている(変わり者の意)』と言われる事がイヤだと思う自分がいた。
変わってる、という本人を中心にすれば、その人以外は、ほぼほぼ変わり者だろう。
私を中心にすれば、私以外は全員変わり者って事に気づいていなかっただけ。

そう。
この世は全員変わり者の集まりなのだ。

posted by ミー at 13:36| Comment(0) | 気づきメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月01日

PCM受講して〜子供の頃を振り返る〜

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PCM受講の続き。

はーっ・・・
いつから、そんなやり方をするようになったのか?
遡れば・・・多分、小学生の頃は、まだ、自分で居られたのだろうと思う。
多分、思春期。
大方の女子がフワフワしてたり、するのを見て、あれ?

俺のとは違うなぁ。(『臨場』内野聖陽さんの決め台詞・・・知ってるかなぁ?)

俺、とは言わなかったけど、あれ?違う?!と思ったのは確か。
そのあたりから、自分のエネルギー補給方法を、ゆがめてしまったのかも。
自分の周りには、女の子らしい人が多かった。
と、思ったけれど、冷静に思い出せば、案外そうではなかったような。
ごく、身近な友人は、決して女の子らしくはなかった。
単純に、自分がああなりたい、という理想を持ってしまっただけ。
自分を否定してしまっただけ。
私の中の女の子らしいイメージは大多数の人の事で、私および私の友人は
少数派だったって事。
この少数派に居る自分を認められず、大多数に入りたかっただけ。
自分自身の個性を認めるより、自分を否定して大多数に混じった方が
楽だったのだろう。私にとっては。
ざっくりなひとくくりの中に居る方が楽、というより、その方が良い事なのだ、
と勝手に思っていただけ。

子供ながらに考えた、必死の処世術だった、と思う。

そんな所からエネルギー補給に関しては、ゆがみ始めてしまったのだろう。

こんな事ひとつ取っても、人の心というモノの成り立ちを考察できる。

自分は人と違う。
最初は小さな違いに疑問、違和感を持ち、いずれ、違って良いんだ!と
思えるようになるか?
もしくは、違うと嫌われる、怒られる、仲間はずれになる、なんて出来事が
あったとしたら、人と自分の違いはあってはならない!と思い込むようになるか?

人生の分かれ目。

自分の中でも、この件に関しては違って良い!と開き直れるけど、この件に関しては
自分の違い(容姿、感性、感受性等々)は認めらんねぇ!!!!
と、自分の個性を押し殺している部分があるんじゃないか?と思う。

そして、苦しい人ほど、否定する部分を重要視している、自分の中の大きな部分を
占めている、という事になると思う。
かつては私もそうでした。

『良い人間に成長する為には、悪いと思われる部分を戒め、矯正していく事が正しい。』
という、どこかしら、潜在的に思い込んでいるモノ、信仰があったから。

悟った人の話では、この世は何であっても、何をしてもOK!と言わっしゃる。
覚醒した人は口々にそういう。
じゃ、どう生きてもいいわけよ。
どう在ってもいいわけよ。
じゃ、良い人間に成長しなくてもいいわけよ。
逆に、良い人間に成長してもいいわけよ。
でしょ?

結局、自分の動機が一番大事。
『良い人間に成長する事が良いことだ!』と教えてくれたのが、
父、母、尊敬する人、大事な人がであったから、それに合わせて自分の軸としているか?
そう教えてもらった。そして、自分でもそれが『心地良い!』『元気になる!』という
体感もあるので、自分の軸、指針にしている、という事なのか?

私は、花を愛でたり、かわいらしいモノを見て癒やされるタイプではなかった_| ̄|○
キッチリかっちり、エクセルの表できあがる方が、数段、気持ちが晴れやかだ。
スケジュール通りに物事が進む方が、ずっと癒やしになる。
もうひとつの特性として。
たった一人で、考え事をする時間が結構必要。
(一人は淋しいものだ、という思い込み、刷り込みがあったので、
一人の時間は淋しがるモノだ、だから淋しがろう、としていた模様^^;)

自分のエネルギー補給に長けた人は、自分が芯に欲するモノをよくわかっている
のだと思う。
迷いもなく、それをやってしまうのだろう。
思えば、私は、それが下手くそだったという・・・

自分にご褒美!の意味が、ようやっと理解できたPCM受講でありました。
posted by ミー at 16:15| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする