わかってくれる人はいない 〜私もエスパーじゃねぇし〜

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私をわかってくれる人はこの世に居ない、と嘆き悲しむ時がある。
多々ある。
じゃ、みんな私の事をわかってくれたらどうなるのだろう?
『サトラレ』という映画が流行ったけど、覚られた人は覚られたで悩んでいたなぁ。

私の事をわかってくれない。
私はすぐに人にわかってしまうくらい、単純な人間なのか?
いやいやいや。
そうそう、簡単にわかってもらっちゃ困るわよ。
この私の人生を。この私の事を。

ここはわかって!でも、ここはわからなくていいから。
というのも、勝手な気がする。

だから、この世に私の事をわかってくれる人など、どこにも居なくていいのだ。
だって、私だけの至福の体験ですもの。
似たような体験をして、似たような感覚は持っていても、細かい所が違う。
一致しない。
だから、私の体験は、私だけのモノなのだ。

誰かにわかってもらおう、と思う事が、そもそもの勘違い。
だって、私が誰かの事を完全にわかる事ができるのか?
1つでも、完全に分かる事があるのか?
父の事、母の事、夫の事、身近な人達。

身近で同じ経験をしたとしても、体感としては、それぞれの体験だ。
読心術が使えたとしても、透視ができたとしても、それを見ているのは私。
結局、私の体験、になってしまう。

私が人の事をわからないのだ。
人に私の事をわかってくれ、と言うのは、自分に無い能力を人に求めているって事。
こういうのも、自分を棚に上げる事になるのだろう。
自分にできるのは、せめて共感する事だけ。
あくまで、共感。
わかってる訳ではない。『多分、こうだろうな〜〜???』という推測の元での共感。

自分をわかってくれる人はいない。
だから、わかってもらおう、と思う事自体が、大いなる勘違い。
共感までが、お互いの最大の接近なのだ。

どうせ、誰もわかってくれる人はいない、と嘆いていても、
私の事をわかって欲しい!と嘆いていても、
いや、分かってもらえないのが普通、つぅか、わからないのが正常だから。
とすれば、嘆いているのもバカバカしくなる。

どうせ、誰も私の苦しみをわかってくれない、とアピールするより、
私の苦しみを分かって欲しい!とアピールするより、
いやいや、この苦しみは、誰にも体験できない、私だけの体験だから、
誰にも見せないわよ。もったいない!と、考えるのも面白いかもしれない。
誰にも味あわせないわよ!と悦に浸るのも面白いかもしれない。

”あなただけの、特別な体験!至福の時!”
これを、エステやマッサージだけじゃなく、自分の過去の体験(特に苦しい事)に適応しても、間違いじゃないと思うの。
変人、と呼ばれるかもしれないけどね。

この記事へのコメント

  • 素晴らしいと思います
    2016年03月10日 15:20