迷惑な人 〜それは人と事象によりけり〜

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迷惑をかけてはいけない、と言われている。
はたして”迷惑”とは何だろうか?

誰かに用事を頼まれる。
例えばの話し。
『缶コーヒーを買ってきて』と頼まれたとする。
これが、好きな人、憧れの人、尊敬する人から頼まれると『喜んで!』となるハズ。
頼られて嬉しい!となるハズ。
ところが、嫌いな人、うっとぉしいと思っている人から頼まれると『何で私が?』となる。
同じコトなのに、気持ちひとつで、物事の様相が変わってくる。

人から物事を頼まれる時、嬉しいと思う時と、迷惑と思う時がある。
”頼み事””お願い事”という行為に対して、2つの見解が生まれる。
頼られて嬉しい、または、はた迷惑な。

では、自分が迷惑をかけて・・・と思う事を、よくよく考えてみる。
それは本当に迷惑なのか?

何か、他人に頼るべき事が起こった、他人の時間を取ってしまった、手を煩わせる事になった。
はたしてそれが迷惑なのだろうか?

私は、相手が迷惑をかけて・・・と言われた時『迷惑じゃないですよ』と言う。
本気で迷惑じゃない、と思っている。
迷惑=アクシデント=お祭りみたいで楽しい、と繋がってる時がある。
そういう人間もいるから、全部が全部、迷惑じゃないと思う。
実は、迷惑をかけた、と思っている本人だけが、その行為を”迷惑”と捉えているに過ぎない。

”助け合い”という言葉があるのに”迷惑”と捉えてしまう。
その事に対して、迷惑をかけてすみません、という気持ちを乗せるより、助けてくれてありがとう、
という気持ちを乗せた方が健全な気がする。

人に頼られるのは、総じて嬉しい事のような気がする。
自己存在を肯定してもらえた、という実感が多分に受け取れる行為だと思うから。
頼られる行為を迷惑だ、と捉えたとき、なぜ、自分は”迷惑”と捉えたのだろう?と
むしろ、そっちに意識を向けた方が健全な気がする。

”お世話になった方”が迷惑なんて思ってませんよ、と言っているのを信じて安心しますか?
いや、これは口先だけで、本当は迷惑と思っているはずだ、と不安になります?

どちらを選択すると、自分が生活しやすいですか?

全員に対してそれをやるのは難しいかもしれない。
だけど、せめて自分が信頼できる人に対しては”迷惑をかけてしまった”という思いを持つより
”助けてくれてありがとう”と感謝した方が気持ちが楽になるし、ポジティブな気がしませんか?

どうしても感謝の気持ちに切り換えられない、何度もやってみようとしたけど無理!
そんな時は、自分の行為に対して、昔、我慢してしまっていたり、罪悪感を感じる事件が
起こってたかも。

迷惑をかけたと思う=相手の善意、誠意を信じられない、と置き換えたらどうだろう?
自分が人を信じていという事実に行き当たらないだろうか?
人を信じていない=自分を信じていない、と繋がらないだろうか?
唯一の味方である自分を信じられなくなったのは、いったいいつ?
こんな私を助けてくれる訳が無い、と思い始めたのはいつだろう?

私たちは至福の存在だ。
私たちは完全だ。
私たちは救われている。

そういう知識はあるのに、自分がそれに結び付かないのはなぜだろう?
結びつけてみて、ああそうだった、私は助けられて良いんだ、と思えたら良し。
それでも、助けられる訳が無い!と思う時、そこには必ず、自分にとって悲しい出来事が
起こっていたのだと思う。
そしてそれを、ず〜っと引きずり続けているのだと思う。
社会の常識に、親の教えに、子供の頃のショックな出来事に、引きずられているのだと思う。

信じる気持ちを掘り起こしたいのであれば、過去の記憶をたぐって、どこでどう思い違いを
してしまったか、検証してみるべき。

人ではなくコトを観る。
そうすると、今までとは違う風景が見えてきて、思い違いに気づけるかもしれない。

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