2016年04月04日

それも答えなのか・・・ 〜かなりショックです〜

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生まれた理由を考えていた。
なぜ生まれたか?
ではなく、なぜ生んだか?
どういう理由で、母は私を産んだのか?
どういう理由で、父は子を作る事にしたのか?
どういう理由で、両親は私を産んだのか?

こういう疑問を持っている、と言ったら、周囲に不思議がられた。
どうも、わたし独特の疑問らしい。

子供が欲しいとはどういう事なのか?
子供を欲しいという欲求はバックや靴を欲しいと思うのと同じではないのか?
子育ては大変だ、という情報を持っているのに、なぜ欲しいと思ったのか?
友人達は子供を持っている。
その大抵が、子育ての悩みを持っている。苦しんでいる。
そういう親でも、そうでない親でも、子供がいる喜びはひとしお、とも言う。
けど、私の耳に入ってくるのは1割喜び、9割愚痴、な気がする。
(あくまで、私がそう捉えてしまう、という事だけど)
子供が欲しいと思うのは、結婚して子供が生まれる、という事が普通だから
何の疑問もなく、世間体で子供を持つ事にしたのか?
結婚して子供が生まれ、そのまた子が生まれ、というのが豊かな人生だから
自分の人生を豊かにする為に、子供を持ったのか?

子供が産まれたかったから、産まれた、という話しもある。
それも知っているしよく解る。
種の保存、本能、っていうのがあるのもわかる。
カルマの法則で、っていう事もわかる。

だから、どういう理由で産まれたか?という疑問は、とっくに解決していた。
ところが、また、浮上した。
もしかしたら、今抱えている課題のサイドストーリーとして浮上してきたのかもしれない。
しかし、浮上すれば、メンタルがメタメタだ。
だだっ子のようになる。いや、気分は単なるだだっ子状態としか言いようが無い。
親には感謝しているし、私が望んで産まれた事もわかっている、にも関わらず、
『なぜ私を産んだ?!?!?!』
という疑問と共に、うんざりするような拗ねた気持ちがおさまらない。
こんな疑問を持ってる事自体、親が知れば悲しむだろう、というのもよくわかる。
だから申し訳無いなぁ、と思うけれども、浮上した物は、自分が納得する答えを
得られない限り、霧散してはくれない。
疑問とその疑問を否定しようとするのに心がざわつき、どんよりだ。

ところが。
お風呂とはありがたいもので。
浮上した疑問のお陰でどんよりMAXになった頃、ちゃぽんとお風呂につかったら
パカッと閃いた。

『理由は探さなくて良い』

え?あ?え〜〜?!?!
理由は探さなくて良い?
ああ、そうか、探さなくていいんだ。
すとんと腑に落ちた。

いやいやいや、答えは必要でしょう。
理由は必要でしょう?!
答えや理由や動機は探さなければならんでしょう!

腑に落ちた後で、しばし混乱。
しかし、脳内でジタバタやりつつ、探さなくて良い理由がなんとなく浮かんだ。
要するに、ひとつの正しい答えを探さなくて良い、という事。
私を産んだ理由はひとつでは無い。
母の、父の、あんな思いやこんな思い、それからいろんな考えがあっての事。
だから、ひとつの理由を探そうとするなら、その必要は無い。
理由はたくさんあるから。

どうしても、ひとつの正しい答えを欲しくなってしまう。
無意識に『ひとつの正しい答え 』を探している事すら気が付かなかった。
理由を探している、と思っていたけれど、本当に欲しかったのは
『正しいひとつの理由、正しいひとつの答え』

そんな物は無い!

自分が何かをする時だって、この理由!と明確な一つの動機だけっていう事は
なかなか無い。
むしろ、複数の理由、要因から事を起こす事の方が圧倒的に多いのだ。
そして、動機というのは、人それぞれなのだから、動機は人の数だけある。
正しい、ひとつの答え何て物は、この世に存在しないのだ。
存在しない物を探しても、時間の無駄。
だから探さなくていいのだ。

理由は、答えは、探さなければならない、と思い込んでいたのだろう。
実は、探さなくていい場合もあると知って、一気に気が楽になった。

いったい何を真剣に悩んでいたんだろう?
思い詰めていた自分が可笑しくなった。
posted by ミー at 01:21| Comment(0) | 気づきメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

司馬遼太郎さんに学ぶ 

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無思想という思想。
これが日本の柔軟性の根底になっている。
他国の文化を取り入れ、独自のスタイルにアレンジ。
日本古来の神道と渡来の仏教の共存。

NHKスペシャル『司馬遼太郎』さんより。


何かになろう!という意思は無い。
何者にもならなくていい。
それこそが、日本の柔軟性。

何かになろうとすると、そうでは無い物を排除したくなる。
何かになろう、という気持ちがなければ、目の前の事を受け入れ、それを取り入れる事で
変化に乗っていける。

どちらがいいと言う訳でもないし。
どちらもひとつの生き方。

甲乙つけがたく、また、自分の中に、どちらもある。
故に、どちらの生き方が、今の自分に合っているか?と、その時々で、使い方を変えてもいい。

何かに突出して居る人、それに集中している人。
1つの特技がある人。
何かになろう!と決めて貫いている人が羨ましかった。
どうして私はそういう心境になれないのだろう?
何をやっても、かじるだけで、続かないし。
そういう自分にホトホト嫌気がさしていて、何か、1つの技術を身につけたい、
なんぞと思ってみたりもする。
けれど現実化はしない。(妄想だけで行動しない)

日本人の根底にある『無思想という思想』という考え方を聞いて
ああ、そうなのか、と楽になった。
なんたって、わたくし日本人。
漏れなく、この思想と寄り添っているはず。
何者にもなりたくない自分で良かったんじゃん。
それを評価するも、ダメだしをするも、視点の違い。

何者かに成りたい!と思わないから、何者にでもなれる数多の可能性がある。
1つの固定化した何かになりたい!と考える時よりも、何者かになる可能性がある。
それは成ってからのお楽しみ!とした方が、わたし的には気持ちが爽やかになる。

なんだ、わたしは無思想という思想という生き方の方が好きなのだ。
何かを目指すって性に合わない。

カッコ良く言えば、人生の中で切磋琢磨され、最後の時にどんな形になっているか?
どんな輝きを、どんなカットになるダイヤモンドが出来上がるかを楽しみにしている。

いやいや、ダイヤモンドじゃなくても。
『こんなん出ましたけど?』と、自分でも『これは珍妙な?!』と言える
モノが出てくるといいなぁ、と思っている。

なんと!
書いてて、ここで本音が・・・

私は”美しい”でも"素晴らしい”でも”立派な”でもなく、

『珍妙な!』

というモノが見たいらしい。

『変わっている(変わり者の意)』と言われる事がイヤだと思う自分がいた。
普通に、無難に、幸せに生きて欲しい、という親の願いを叶えようとすれば、
変わり者の自分は、親を裏切っているようでイヤだったのだろう。

『変わっている(変わり者の意)』と言われる事がイヤだと思う自分がいる。
そえは自分を賛美する言葉だから、他人に言わせていたのだろう。
けれど、それを聞くのはまだ早い、時期尚早、と思っていたのだろう。

『変わっている(変わり者の意)』と言われる事がイヤだと思う自分がいた。
変わってる、という本人を中心にすれば、その人以外は、ほぼほぼ変わり者だろう。
私を中心にすれば、私以外は全員変わり者って事に気づいていなかっただけ。

そう。
この世は全員変わり者の集まりなのだ。

posted by ミー at 13:36| Comment(0) | 気づきメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月02日

対極 〜考え方までCD化してないか??〜

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陰陽、天地、表裏etc.
忘れがちなんだけど、物事にはかならず2つの面がある。
レコードの時代はA面B面。
表と裏に(針で)読み取る情報があったのだけれど、CDって片面だけに
情報があるんだよね。
だから両A面。2曲共、A面扱い。B面が無い?!
表に出ないマイナーB面があるから、それが隠れた名曲だったりしてファンの心をくすぐるのに。
今は、両方ともメジャーなのだ。
CD化が進んだ時、2曲目の存在価値は疑われたのだろうか?
2曲入りの必要があるのだろうか?って。
・・・脱線^^;

レコードだけじゃなく、物事には両面がある。
その両面を観る人間が在って、それが三位一体って言うんじゃないかな?
と最近は思う。
片方の面だけ観ていると、考えが行き詰まる、堂々巡りになる。
片方だけフォーカスするという事を、シーソーの片側に重たい物を乗せている
とイメージすると、それはうまく機能しそうにないな・・・って想像できると思う。

陽極まれば陰となる。陰極まれば陽となる。
陰陽を知れば、中庸で居る事ができる。
自分がリラックスできる立ち位置、心の置き場所を探す事ができる。

神道の世界では、陰陽を火(か)と水(み)という事で表現したらしい。

いずれにしろ、昔の人は、物事の両側面を観るという事に至ったのだろう。
それを知っていたのか、見いだしたのか?

自分を一方的に責め続けているのなら、自分を擁護する事を忘れていないか?
自分には『私が悪い』という片面しか持ち合わせていない、と思い込んでいないか?
自分は不幸だ、と思い続けているのなら、本当に不幸な側面しか持ち合わせていないのか?
幸せだった時は一度も無いのか?不幸しか無い、と思い込んでいないだろうか?

常に常に、中庸を意識する必要も無く、だから、常に常に、片方だけ意識する必要も無く。
片側に寄り続けているな、と気づく事が重要で。
気づいたら、あれ?もう片方は???と探してみると良い。
探し出せると、結構な確率で、自分の偏り具合に『ぷぷっ』と吹き出すと思う。
というか、吹き出す余裕が出てきてほしいものだ。

ま、意識せずとも。
片一方の考え方に、ぎゅーぎゅーぎゅーぎゅー寄っていれば、案外、自然に、反動で
反対側の考えに、ぴょ〜〜ん!と飛んで行くかもしれないね。
























posted by ミー at 23:32| Comment(2) | 気づきメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月14日

死生観

死に関する思い込み

痛み→死ぬのが怖いにつながる

痛みが怖い→切られた痛み、処刑の痛み→無念、私は悪くない、なぜこんな事に?!

死を怖いと思っているから、死に直結する事を痛いと思う。

死=次の生への準備段階。
死=生ききったというサイン→自殺、他殺、事故、死の原因問わず。

人ではなく、事だけを観る。
posted by ミー at 20:18| Comment(0) | 気づきメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月28日

本当にやりたい事

2499b08df1151131503024f0afc36b17_s.jpg過去の誤解を紐解く。
一生禊ぎの人生。

イヤ〜〜重いね。
重かろうと軽かろうと、今生のライフスタイルはこれに限る!
・・・という事を認めなければならない。

結局は、過去に誤解した事を紐解いていくという作業。
過去の誤解によって、嫌いになってしまった自分を拾い集めていく作業。
嫌いだと思って散り散りバラバラになった自分の断片を、そうではなかった、と自分にひっつけ直す作業。

ひっつけ直す、はちょっと言葉が違うか?
過去の事例、学びをひっくるめて、新たな形を創りだして行くこと。

今、目の前に起こっている出来事が、過去の出来事(とてもイヤだった事、認めがたい事)と
とてもリンクしていて、同じニュアンス、エネルギーを持っている事に気づければ
過去生では大事故だった事が、今生では小さないざこざとなって現れている、という事に気づければ
解決したい焦点がハッキリしてくる。

人間関係を抜きにして、起こっている出来事だけを見つめる事ができれば、自分を再構築しやすい
だろうな、と思う。
posted by ミー at 11:39| Comment(0) | 気づきメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする