2015年12月31日

迷惑な人 〜それは人と事象によりけり〜

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迷惑をかけてはいけない、と言われている。
はたして”迷惑”とは何だろうか?

誰かに用事を頼まれる。
例えばの話し。
『缶コーヒーを買ってきて』と頼まれたとする。
これが、好きな人、憧れの人、尊敬する人から頼まれると『喜んで!』となるハズ。
頼られて嬉しい!となるハズ。
ところが、嫌いな人、うっとぉしいと思っている人から頼まれると『何で私が?』となる。
同じコトなのに、気持ちひとつで、物事の様相が変わってくる。

人から物事を頼まれる時、嬉しいと思う時と、迷惑と思う時がある。
”頼み事””お願い事”という行為に対して、2つの見解が生まれる。
頼られて嬉しい、または、はた迷惑な。

では、自分が迷惑をかけて・・・と思う事を、よくよく考えてみる。
それは本当に迷惑なのか?

何か、他人に頼るべき事が起こった、他人の時間を取ってしまった、手を煩わせる事になった。
はたしてそれが迷惑なのだろうか?

私は、相手が迷惑をかけて・・・と言われた時『迷惑じゃないですよ』と言う。
本気で迷惑じゃない、と思っている。
迷惑=アクシデント=お祭りみたいで楽しい、と繋がってる時がある。
そういう人間もいるから、全部が全部、迷惑じゃないと思う。
実は、迷惑をかけた、と思っている本人だけが、その行為を”迷惑”と捉えているに過ぎない。

”助け合い”という言葉があるのに”迷惑”と捉えてしまう。
その事に対して、迷惑をかけてすみません、という気持ちを乗せるより、助けてくれてありがとう、
という気持ちを乗せた方が健全な気がする。

人に頼られるのは、総じて嬉しい事のような気がする。
自己存在を肯定してもらえた、という実感が多分に受け取れる行為だと思うから。
頼られる行為を迷惑だ、と捉えたとき、なぜ、自分は”迷惑”と捉えたのだろう?と
むしろ、そっちに意識を向けた方が健全な気がする。

”お世話になった方”が迷惑なんて思ってませんよ、と言っているのを信じて安心しますか?
いや、これは口先だけで、本当は迷惑と思っているはずだ、と不安になります?

どちらを選択すると、自分が生活しやすいですか?

全員に対してそれをやるのは難しいかもしれない。
だけど、せめて自分が信頼できる人に対しては”迷惑をかけてしまった”という思いを持つより
”助けてくれてありがとう”と感謝した方が気持ちが楽になるし、ポジティブな気がしませんか?

どうしても感謝の気持ちに切り換えられない、何度もやってみようとしたけど無理!
そんな時は、自分の行為に対して、昔、我慢してしまっていたり、罪悪感を感じる事件が
起こってたかも。

迷惑をかけたと思う=相手の善意、誠意を信じられない、と置き換えたらどうだろう?
自分が人を信じていという事実に行き当たらないだろうか?
人を信じていない=自分を信じていない、と繋がらないだろうか?
唯一の味方である自分を信じられなくなったのは、いったいいつ?
こんな私を助けてくれる訳が無い、と思い始めたのはいつだろう?

私たちは至福の存在だ。
私たちは完全だ。
私たちは救われている。

そういう知識はあるのに、自分がそれに結び付かないのはなぜだろう?
結びつけてみて、ああそうだった、私は助けられて良いんだ、と思えたら良し。
それでも、助けられる訳が無い!と思う時、そこには必ず、自分にとって悲しい出来事が
起こっていたのだと思う。
そしてそれを、ず〜っと引きずり続けているのだと思う。
社会の常識に、親の教えに、子供の頃のショックな出来事に、引きずられているのだと思う。

信じる気持ちを掘り起こしたいのであれば、過去の記憶をたぐって、どこでどう思い違いを
してしまったか、検証してみるべき。

人ではなくコトを観る。
そうすると、今までとは違う風景が見えてきて、思い違いに気づけるかもしれない。
posted by ミー at 00:34| Comment(0) | 内観(自分調査) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月14日

こんな事も明るく話したい

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女性だけの特質。
新しい命を宿す事ができる、という事。
とても神秘的で崇高な事のようなイメージがある。

ずいぶん、ずいぶん、ずいぶん、ずいぶん、自分を苦しめてきた事がある。
その神秘を自分で握りつぶしてしまった事。
中絶。

若かりし頃、彼はまだ学生で、私たちは結婚もしておらず・・・
よくある話し。
中絶によって苦しんでいる、自分を責めている女性はたくさんいると思う。
犬も歩けば棒に当たる、っていうくらい、10人女性がいれば7〜8人は、こういう体験が
あると言っても過言ではない。
まさか?!と思うけど、どういう訳か私は、20代からカウンセリングをする人のそばで
仕事をしており、そこでも、こういう話はよく聞いた。
だから、結構な確率で経験者が多い、という事は確かだ。
ただみんな、この件に関しては、特定の人にしか話をしないだけ。
私も両親には話していない。
なので、ここに書くには勇気がいったけれど、どこからか話が漏れないか?と
心配ではあるけれど。

その時は、最善の判断をしたと思っていても、気丈に決意したと思っていても
悲しいかな、母性の性(さが)なのか?
我が子を失う、という事に、本能的な悲しみ、絶望が襲ってくる。
そして罪の意識を感じる。
とてもとても、口では言い表せないくらいの情けなさを感じる。

親や周りに責められても、若くても、お金が無くても、生んで育てている人がいる。
自分にはその勇気もなかった。
世間体、親の目、その後の生活への不安、に負けてしまった、とも思えてくる。
私にはどうして出来なかったのか?

単純に、中絶は悪い事、命への冒涜、という思い込みもある。

手術台の上では全身麻酔なのに、手足を縛られる。
途中、暴れる場合があるらしい。
痛いのだろうか?その辺りは私にもよくわからないが、ある産婦人科医の話しの中で
『無意識に拒絶して、逃げようとして暴れるのではないかと思う』という言葉が印象に残っている。

多分、20年くらい、この罪の意識に悩まされていたと思う。
当初は、死んだ子の分まで生きよう、と頑張って二人分生きる勢いでやっていた。
でも、それは体に無理があったのだろう。
長くは続かなかった。
二人分頑張るんだ!という気力とは裏腹に、体がついて行かなくなった。
そうすると、罪の意識、後悔の念が増してくる。

そんな中、ある人のブログの中に救いの言葉を見つけた。
女性が悩んでいる事を色々と解説して、そこに寄り添って下さる文章が綴られた後の結びの文。
正確な文章は忘れてしまったけど。

『たとえあなたが、結婚していなくても、仕事をしていなくても、子供がいなくても、中絶していても、あなたは素晴らしい』

うっかり勤務先の休憩時間に読んでしまい、事務所で号泣しそうになるのを必死にこらえた覚えがある。
とてもとてもとてもとても、救われた。
女性として自信を失っていた心に、明かりが灯った。

それで、一時は救われたものの、やっぱり、自分を責めてしまう時がある。
そんな時、天使が現れた。
浮上してきた悲しみに耐えきれず、公園のベンチで泣いていたら、見ず知らずの女子高生が声をかけてくれた。人には気づかれないようにしていたつもりだったのに、一旦、通り過ぎた彼女は、私の様子がおかしいのが気になって、引き返してきてくれたのだ。
私は40代、相手は女子高生。こんな話をしていいものか?
だけど、赤の他人。知らない人だから、せっかく与えられた状況だからと思い、泣いている理由を話す。自分の後悔を話した。
黙って聞いてくれた彼女はこう言ってくれた。
『泣いてるお母さんを見て、赤ちゃんが喜ばないと思いますよ。自分を思って泣くより、明るく生きてくれる事を願うと思いますよ』

この子は天使か?
とても不思議な状況だった。
言われてみれば、確かにそうなのだ。中絶する事で、生かされた私の人生がある。
それを生きる事こそが、最大の供養だし、最大の謝罪でもある。
自分を責める事や後悔する事では、何も生まれないのだ。
また、救われた。

その後は、子供が早く死ぬには、それなりの理由”カルマがある”という事も学んだ。
子供が早く死ぬ=その子供に早く死ぬ為のカルマがあった。
例えば、その子がその前の人生で人を殺していたとか。
人を殺す事をした”与えた”のだから、今度は人を殺すことを受けとらなければ収集がつかない。
つまり、自分を殺してくれる人が必要になる訳だ。
人を殺すなんて恐ろしい事、誰が引き受けるだろうか?
恐ろしさや後悔、いろんな苦しみを引き受ける覚悟で、カルマの回収の相手役を引き受ける訳だ。
これを、思いやり、愛のある行動、と言わずして、何とするのだろう?
だから、中絶もまた、思いやりから出た行動だ、という考え方に至った時、自分は悪いヤツだと
思っていたけれど、案外、良いヤツだったじゃないか、と思った。
自分の中にも愛があったんだ、という思いでホッとした。

ここまで納得したのに、まだ、後悔の気持ちが立ち上る。
だから、おかしい、これはおかしい、と思い、この文章を書き始めた。
書きながらも、泣いている自分がいる。
なぜ?
すっかり、腑に落としたハズなのに。

結局、私は子供を持たなかった。
子供頃から、将来、自分のような子供が生まれるのはイヤだから、子供は欲しくない、と思っていた。
だから、思った通りの人生になっている。
そこに後悔は無い。
中絶を後悔しているのに、いざ、子育ての事を思うとゲンナリする。
矛盾だ。
子供が欲しい、と思う事もあった。
けど、ほんの一瞬の気持ちだ。その子が大きくなる過程を思うと、子育ては楽しいのかもしれないけれど
自分の事も持てあましているのに、どうやって育てるの?と思う。

母は、親は子供と一緒に成長する、と豪語していた。
だから、子供を持つ事は大変だけど素晴らしい、と。
確かにそうなのだろう。
しかし、私は母の言う人生を生きられなかった。
母の言う事を、再現、証明する事はできない。
母の言う事に、共感できない人生を送っている。
母に孫の顔を見せ、母に子育てを習う、という事ができなかった。
同じ悩み(子育て)を共有できずにいる。
母に寂しい思いをさせている。
ん?
ん?
あれ?
ここに後悔しているのか?
ここに自分を否定しているのか?
だから私はダメな子、ダメな娘です、と思っているのか??
ん?
あら?
子供を産んでいない私は、成長してはいけない、母の子供のままでいないといけない、とか思ってる?
人の親になっていないから、大人になっちゃいけない、とか思ってる?
え?
そんな事を思っていたの?
あらやだ。
えーと。図体だけは40代後半になってますけど。
まだ、大人になっちゃいけない、とか思ってます?私?
母の人生観を大切にするあまり、大人にならないって・・・
むしろ、その方が、母も迷惑だろうよ。
私が大人にならなきゃ、死ぬに死ねない。(いや、まだ若いから死ななくていいんだけど)
そりゃ、母も安心できないわなぁ。
私が子供なんだから、子供扱いするし、いつまでも幼稚園児扱いな心配をされるわなぁ。

ところで、私が中絶をしたと言った所で、私を愛するのを辞める親か?
あの両親が。
私が子供を持っていない、という事で、私を愛するのを辞める親か?
私が母の人生観を大切にしないから、と言って、愛するのを辞める親か?
確かに、がっかりしたり、ショックを受けたり、一時は怒るかもしれない。
けれど、だからと言って、私を責めたりするか?
私も苦しんだであろう事を理解して、私を愛し続ける、受け入れ続ける努力をするだろう。
なんとか、私が心安らかに生きる事を祈り続ける人達だろう。
不器用ながら、訳のわからない形で『おまえを愛している』と伝えようとしてくれる人達だろう。

私が生まれた=愛されている
それがこの世に形を持っているだけでなく、意識が在るということ自体、愛されている、という事か。

存在している=愛されている
存在している=許されている

あれやこれや、父と母に申し訳無い事をした、と思っている自分がいる。
けれど、私が居るってだけでいいんだな。
例え私の肉体が無くなっても、先に逝く事になっても(そうなったらとても悲しむと思うけど)
そこに私が存在した事が、とても素敵な煌めきなのだ。
両親にとっても、私にとっても。
だから、ごめんなさい、という言葉より、ありがとう、を伝える方が、健全なんだと思う。
申し訳無い、と思うより、愛している、と思う方が健全だ。
ありがとう、愛している、と祈る方が健全だ。

なんだ、私はここに居ていいんだ。
一度でこの事が腑に落ちればいいけれど。
思い込みを外すたび、この感覚を味わうのだろう。

自分の居場所が無い、と思っていたけれど。
自分の居場所は自分で作るんだ、という思いに変わったから、
少しずつ、ここに居ていいんだ、という思いを深め、広げていくのだろう。

私はここに居ていいんだ、という思いが、揺るがなくなるまで。
posted by ミー at 00:45| Comment(0) | 内観(自分調査) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月08日

嫉妬 〜それは媚薬かもしれない〜

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私は自分の嫉妬心や独占欲とずっと戦ってきたように思う。

一旦、それらと闘うのをやめて降参してみた。

好きにあばれればいい、私の手に追えないから。

それから、こうも思った。

物事は自分の思った通りには決してならない。

ネガティブであればネガティブであるほど、

よくよく考えてみれば、

よくよく状況を監察してみれば、

自分が消えるという、最高に望んでいた状況になっていない、と。

どうやっても消えない自分。

ゆえに、どうあがいた所で自分一人の考えじゃ、思った通りにならない。

必ず、何かしら、サムシンググレートみたいなものが、働きかけている。

そしてそれが、愛と呼ばれるモノなのだろう、と。

とはいえ、嫉妬や独占欲を悪モノにしたままでは、可哀想な気がする。

せっかく、この世に在る感情なのだから。

嫉妬や独占欲も使いよう。

嫉妬して、自分を攻撃する事無く、自分を向上させる原動力にすればいい。

あの人が羨ましい・・・私はあんな風になれない、悔しい(T_T)
あの人が羨ましい・・・あの人にはなれない、けれど、同じように輝くべく頑張る!

これを私だけのモノにしておきたい・・・みんな、近寄ったら殺すぞ!
これを私だけのモノにしておきたい・・・そのモノが居心地良い空間を作ろう^^v

もしかしたら、嫉妬や独占欲という感情に、逃げていたのかもしれない。

その感情があるから私は醜い人間だ、という所に逃げ込んで、美しい自分(全てを許せる自分)を

見ないようにしていたのかもしれない。

美しい自分を見ない事で、きっと、何かメリットがあったんだろう。

いずれにしろ、嫉妬や独占欲で自分を傷つけるのはもったいない。

ただでさえ、いろんな事で傷ついているのだ。

もしかしたら、これも自傷行為という甘美なモノで、苦しいながらも酔いしれていたのかもしれない。

それならば、そうでなくても、これ以上、自分を傷つけない方法を探っていきたい。
posted by ミー at 15:01| Comment(0) | 内観(自分調査) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月05日

悪人魂〜涙ぐましい努力を止める時〜

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自分が悪人だと思うのを辞めました。
わたくし、これから、天使になります(^^)d
悪人だったから、悪人だった事を許せないから、ほら、私はやっぱり悪人でしょ!!
許さる訳はないんだわ!!と、夫に、私の醜悪な姿をゴリゴリ見せておりましたが、やめます。

なぜ止める気になったか?
そうやって、自分の醜態を一番身近な人に晒して、その人に許してもらおう、としている
自分の魂胆が見えたから。
人に許してもらおう、としていた自分を見つけたから。
そうやって、醜態をさらすことを現実化している、っていう事は、天も人も許してるっちゅう事で、たった一人、私が私を許していなかった事が見えた(気づいた)から。
私だけが、私がまた、悪いことをしないよう、暴走しないよう、私をがんじがらめに縛りつけてた事がわかったから。

さて、縛っていないと私は暴走するのか?
しないんじゃないかな~?充分反省したし、検証もしたから、また同じ間違い(悪さした事)はしないと思う。また間違っても、誰かが指摘してくれて、軌道修正を手伝ってくれる。
だから、自分を縛るプレイをやめて、自由になっても大丈夫だ。
自由になろう。その為には、悪人で醜悪な自分を許す事。

醜悪な私は居るよ。共存してるよ。
だからと言って、その事に重点を置いて、その事ばかり意識して、何かあれば、
自分が悪人、悪者になる、というパターンを反転させようと思った。
美しい私もいるのだ。
だったら、その事に重点を置いて、その事ばかり意識して、何があっても、私は美しい
善の心を持って、他人にはもちろん、自分にも関わっていけばいいじゃないか。

今まで、散々、極悪な自分をリスペクトして生きてきたのだから。
反転して、善人なる自分をリスペクトして生きてもOKよね。
何をしてもいい、全ては肯定、オールOKなんだもの。

この世が鏡の世界なら、輝いている自分でいれば、鏡に映った自分も輝いている。
この世が鏡の森ならば、どれだけのきらめきになるだろうか?

もっと言うと、鏡(相手)の望む姿または鏡(相手)に見あった姿、もしくはそれ以上の美しさを映し出しても良いな~と。

何をやっても許されている、というのが真理なら、自分を縛る、お仕置きプレイをしても良し、失敗先生で、悪行を糧に善人へ、ついでに天使へと更正しても良し。

悪行を悔いて、立派になっている人はたくさんいる。
私も、その一人になっても良いではないか!
知らない間にかけていた制限。悪い事をしたら罰し続けられなければならない。
更正してはいけない。
はい。これ却下。
posted by ミー at 22:59| Comment(0) | 内観(自分調査) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月03日

落ち込んでも

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落ち込むな!とは言わない。
正直、毎日、毎秒、落ち込んでいる。
毎秒落ち込んでいるから、毎日落ち込む事になる。
そのうち、落ち込む事に慣れて、そこの居心地が良くなってしまう。
抜け出せなくなる・・・
冬の朝、暖かい布団から抜け出せない時のように。

落ち込んでいる事、めげてる事、拗ねてる事、の奥底の方には
自分を許せていない、という理由がとぐろを巻いている。
人に何かされたから、落ち込んでいる。
何かした相手が悪いから、私は落ち込まされている。
その下には、何かされた時、自分の本位で無い行動をとってしまった、から落ち込んでいる。
その下には、かつて私もそんな事をしてしまったから、落ち込んでいる。
その下には、そんな事をしてしまった自分を許せないから落ち込んでいる。
その下には、私はそんな事をした悪人だ、と自分を責めている。
その下には、自分に責め続けられている自分が居て、がんじがらめになっている。
落ち込みの土台は、がんじがらめの自分だったりする。

自分の心を微細に分けていくと、最終的に、自分を許せていない、いわゆるブロックが
姿を現す。

毎日、何かしら事件(心騒ぐ事)は起こり続ける。

『事件は会議室で起こっているんじゃ無い!現場で起こっているんだ!』

さて、会議室とはどこだろう?頭の中か?
現場とはどこだろ?現実の世界か?

一見、そのように見える。
しかし、実は、逆なのだ。

会議室とは現実の世界。
現場とは頭(記憶や思考や知識、経験)の中。

情熱(気力と体力)を持って、現場に当たるしかない。
青島刑事のように。

・・・脱線してしまった。

落ち込む時、落ち込み続ける毎日の時、自分がイヤになる事件が起こり続ける時、
こんな事を起こしてしまう自分が居る、と嘆き悲しむかもしれないが、
希望の言葉も同時に持っていたい。

『今、私は、体力を付けているのだ。ひとつでも許せる事を増やせる体力を。』

許し=愛=大元の私(本来の私、とも言う)

本来の私に戻りたい、それは、過去の全ての自分を許したもう事。

全て許す事ができるのか?
いや、今でさえ、ひとつでも許せている事があるのか?
だって、こんなに、こんなに、毎日混乱しているのに。

もうイヤだ!こんなに落ち込むなんて、つらいなんて!
不安で不安で混乱した中、小さく小さくなった時、和久さんに言われた気がした。

『で、おまえさんどうするよ?このまま諦めんのかい?』

がんじがらめの自分を置いてけぼりにするのか?
それとも、からまった糸をほどいて”ぷりん”っとした”ツル”っとした
ピュアな自分を救出するのか?

こりゃ失敬。
諦めてる場合じゃ無い。
諦めてるヒマがあったら、救出に行きますよ!
posted by ミー at 23:39| Comment(0) | 内観(自分調査) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする